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別冊 東京エスカレーター 07

 

平凡に幸福にはなれなかった、経験値の高いすべての人たちへ。『夫のちんぽが入らない』感想

夫のちんぽが入らない

こだまさんは、間違いなく女子をこじらせている人である。自分に極端に自信が持てないがゆえに、求められるがまま「都合のいい女」になってしまうひと。たたみかけるように次々と起こる不幸は、なんでこだまさんにばかり……と涙するほど理不尽なこともあれば、こだまさんが引き寄せてしまったものもある。そんな中で、「夫のちんぽだけが、入らない」のだ。あまりに切なくて、奇跡的な出来事。実話であるがゆえに、ものすごく悪い奴が出てくるのでもなければ、破滅的で劇的な結末を迎えるわけでもない。出てくるのは「少しずつどこかが弱いひとたち」で、書かれているのは、きっとどんな家庭にも起こりうる、もしかしたら隣で普通に笑っている夫婦だってひとしれず、抱えているのかもしれない、小さな歴史だ。その「小さな歴史」をただ尊重すること。

こじらせ読書を続けてきたが、結局はそういうことだ。「いい歳して学歴にこだわってるのとかダサいよね」「いい歳して生まれや育ちのせいにするのダサいよね」「音楽なんて好きなように聴けばいいじゃん」と簡単に言い切れるようなひとに、言い返してやれる一言なんてない。それは、私が生きてきた32年間全部の個人史であり、大切な経験値だから。個人の思い、個人の不幸、個人の選択を、「もっとこうすればいいだけなのに」と高みから見下ろして踏みにじる権利など誰にもない。「子どもを産むことはどんな誰にとっても絶対的で最高の幸せですよ」と無邪気にすすめてくる善意のひとに対して、そっと差し出す1冊を生み出してくれた、こだまさんに、ただ感謝したい。

  

ところで、ごく一部でこの本に対して批判的な意見があるということを聞いて、『おおかみこどもの雨と雪』のことを少し思い出していた。その批判に対する反論は、こだまさん自身が本の中で、ラストのエピソードとして渾身の力を込めて書いているとおりなので(あえて引用はしない、読んでほしい) 、私がここでもう一度書くことはしないでおく。

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思い出したのは、こだまさんの「夫」は、おおかみこどもに出てくる「草平くん」のような存在だったのだろうな、ということだ。

雨宮さんは、『女子をこじらせて』の中でこう書いていた。

恋愛をするということは、汚い自分を引き受けることです。まったく汚いところのない恋愛なんて、ない。どこかに必ず汚い自分の影が現れる。そのことを知らずに、自分は童貞だ処女だと、恋愛している人間を恨んだり憎んだりするのは、浅い考えです。汚い自分を他人に見られ、知られ、そういう自分に自分で気づくことは、何も知らずにいるよりもずっときつい。

おおかみこどもの雪は、草平くんと出会い、彼を好きになる中で、自分がおおかみであることを絶対に知られたくないと思っている。でもよりにもよっておおかみであることで彼を傷つけてしまい、知られてしまう。それでも草平くんは、雪のそばにいることを選んでくれるのだ。

こだまさんと「夫」との関係は、まるで雪と草平くんのその後のようだ。「夫」にとってだけは、こだまさんは「都合のいい女」ではない。「ちんぽが入った」ところでハッピーエンドを迎えるのが少女漫画の伝統的なセオリーだけど、この話は、「ちんぽが入らない」ところから始まる愛の物語なのだった。

 

この本には、こだまさんが子どもを産めないことに責任を感じ「夫」の実家に謝りに行く母親が出てくる。こだまさんは、そのことを非常に恥ずかしいと感じ、同時に深く傷つく。私の母も、自分の人格と子どもの人格を分けて考えることが苦手なひとだ。子どもの失敗は自分の失敗だと思っている。「なぜ、ありのままの私を理解してくれないのだろうか、なぜ、こういう母親であってくれないのだろうか?」ということで必要以上に苦しんでいたけれど、私自身も自分の人格と母の人格を分けられていなかったということに気がついた。べつべつの人間なのだし、それこそ、生まれ育った時代も環境も、母と私とではまったく違うのだ。べつべつの考え方があって当然だろう。考え方が違う、そのこと自体で、私が苦しむ必要はないのだった。

※3/30 一部追記、タイトル変更

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

女子をこじらせて

女子をこじらせて