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「病的な虚栄心」と寄り添って生きていくということ。『東大助手物語』

東大助手物語

 

私のよく見る夢のひとつに、「大学受験の前日なのに、なんの勉強もしていない、やばい」というものがある。それって結構普通かもしれないけど、ちょっと普通じゃないのは、その「大学受験」というのが、「いったん大学を卒業してもう1度入り直す」ための試験、というところだ。

なんでそうややこしいことになっているのかというと、大学卒業後の進路の失敗について、私の中で受け止められないまま逃げていた期間が長いからである。「東大の文学部って、こんなに就職ないんだ!?」ということすら知らなかった世間知らずで「テレビはあんまり興味ないけど、ま、テレビ東京は受けておこうかな」みたいな傲慢なバカだった私は、本命のメディア系企業に悉く落ち(30社落ちた)、東大生だったらほぼ受かると言われて受けたNTTデータにも最終面接で和やかに談笑したのちあっさり落ち、なんかマジでやばいのかもしれん、と思った頃に1社だけ残った電通グループのネット広告の会社から内定をもらい、そんな状態だったにも関わらず「事務局から頼まれたから田村さん出てくれないか」と言われて東大文学部の3年生向け就職説明会で「就職活動成功談」を語ることになった。その時点で就職がちゃんと決まってるのが私1人だったからだと思う。美学研究室の同級生は12人ぐらいいたと記憶しているが、そのうち大学院にすすんだのが3人、就職したのも3人。あとはどうするかというと、他学部の院に進む人、他大の院に進む人、ワーホリを使って留学する人、特に展望はないがとりあえず留年する人、普通に単位が足りなくて留年する人、就職したけど地方の大学の医学部を受け直して受かっちゃった人……など自由気ままであり、「あのときに別の選択をしてたらどうなってただろう」と結構ずっと思っていた。

……と、本に関係ない前置きが長くなったが、横浜のあおい書店をうろついていたら中島義道先生の『東大助手物語』という本が目に入った。中島先生といえば私には、『不幸論』のひとであり、これはきっと、めちゃくちゃこじらせてるにちがいない、と思って買ってみたら、私が「別の選択をしたらどうなっただろう」と思い描くいくつかの道を現実に迷いまくってえらいことになっていてのけぞった、というのが今回の話。

東京大学入学時点では法学部進学課程の文科一類に在籍。一度は法学部進学の手続きをとったものの、「自分が明日死ぬとしたら、いま何を学びたいか」を考えるとそれはどうしても法律ではなく哲学であるという結論に到達。1年留年した後、かねてその著書から衝撃を受けていた大森荘蔵の招きで教養学部科学史科学哲学分科に進んだものの、物理学の理解に困難を感じ、再び留年。カントに関する論文を大森に提出した翌年、本郷の哲学科の大学院に進んだが陰鬱な雰囲気に耐えられなくなり、遊びほうけて修士論文を書けずに退学。司法試験か公務員試験の受験を目指して法学部に学士入学したが、哲学への心残りを捨てられず、法学部卒業後は哲学の修士課程に入学。1年でカントについての修士論文を仕上げる。こうして、学士号2つと修士号1つを得て東大から離れたときには、大学入学から12年が経っていた。

12年ということは30歳まで大学にいたわけで、たしかに文学部の修士にはそういう得体のしれない院生いっぱいたけど、教養学士→哲学修士(退学)→法学学士→哲学修士って、迷いすぎではないか。しかも、卒業して一応就職したあとも、33歳にして親から毎月20万円仕送りしてもらって、ウィーンに私費留学してしまうのである。

その後、予備校の英語講師として就職するが、2年半にして講師としての人気の無さや自己の現状に絶望し、33歳でウィーン大学に私費留学する。当初は両親の仕送りに頼って生活したが、やがて現地の日本人学校で現地採用の英語教師となる。ウィーン滞在2年に近づく頃、日本人学校の教師である女性と結婚。1983年にウィーン大学で、やはりカントについての論文(『カントの時間構成の理論』)で哲学博士号を取得。翌年、東大教養学部助手に採用されるが、そこで上司である教授から執拗ないじめを受ける。のち、帝京技術科学大学助教授を経て、1995年4月より2009年まで電気通信大学教授。

以上の引用は、Wikipediaだが、元ネタがつまりこの本(Wikiには教授の実名が書かれていたが本の中では仮名が用いられているので引用時に伏せた)。

「翌年、東大教養学部助手に採用されるが、そこで上司である教授から執拗ないじめを受ける。のち、」

の、「のち、」の部分が重要でそこから急転直下にいきなり成功譚になっているのだが、まさにこの部分を、ほとんど昨日起きたことかのように詳細に、小説のように綴った本である。 

権威主義がどうとか言ってるやつはこれでもくらえ!なガチバトル

先日『マツコの知らなすぎる世界』に出演した時に、右上のテロップに「東大卒」と始終デカデカと書かれていたことを知った時、私は「うわ〜やってしまった〜」と思った。東大つっても文Ⅲに入っただけだし、しかも哲学専攻*1の学士卒ですから……と半ば学歴詐称のような気持ちになってしまうのは、嫌味な謙遜というよりは、私の中で「東大で哲学を学ぶ」ということは、もっとずっと上のレベルで繰り広げられているガチバトルの世界を指し、私はその地平に到達できなかったという思いがあるからである。この本にはその世界の話がいろいろと出てくる。

上述のとおり、学士から修士、博士に進み、さらに助手の職を手に入れるというところまでがかなりの道のりであるが、助手まで進んだとしてもそれは将来の保証がない不安定な職である。その上には、教授への道が約束された助教授、そして絶対的な権力者である教授。さらには、大学の偏差値に応じた明確な序列もあって、「何歳で、どの大学で、どの役職にいるか」ということが、カードゲームみたいに「その人物の持つ力」を決定づけるということ。そして中島先生は、東大における人事は「なぜ?」と思ってもあとから判断の正しさが判明してくることが多い、と書いている。たとえば法学部では、優秀な人材は引き抜きにあい、学部卒で助手に抜擢される。だから、法学部の教授や助教授で「博士卒」の経歴を持っているひとは「あまり優秀じゃなかったんだね」と噂されるらしい。いかにも東大でありそうなことである。

そんなわけだからして、中島先生は迷いに迷いまくっている自分の経歴に強い劣等感を持っている。同じ時期に自分より上の「助教授」になった人間は10歳も年下の、謙虚さと自信にみなぎっている人物であった。自分は「病的な虚栄心」に支えられてここまで来ただけである。

なのだけれども、この本は「そういう東大の権威主義的な風潮に抗っていこう」という話では実はないのであった。というのも、ここに出てくる糟谷教授(関係ないかもしれないが仮名に「カス」と入れるなど中島先生ほんとうに意地悪)というのが、「教授」の役職には就ているが、自分の研究をそもそもまったくしておらず、過去はともかく現状においては研究においてなんの実力もないことを周囲の教授や学部生にすら見抜かれていて、誰からも尊敬を受けていない、お荷物的な存在であるからである。そして中島先生自身が、糟谷教授によって助手に抜擢されたという恩がありながらも、まったくその当人を尊敬できないということが、本人にもなんとなく伝わって、理不尽で強烈ないじめを受けるのであるが、最後には順当に糟谷教授のいじめは「真に実力の伴うまっとうな教授」によって糾弾されるのであり、中島先生は無事に助教授の職を得、「権威主義社会における順当でまっとうな成功譚」になっているのであった。

「病的な虚栄心」と寄り添って生きていくということ。

本の帯の煽り文句にはこの「糟谷教授による壮絶ないじめ」が、映画『セッション』のような売りとして書かれているわけだが、ネットで語られるマジで壮絶なブラック企業パワハラなどを読み慣れている皆さんは「それほどでもない」と思ってしまうかもしれない。本の中でも書いているように、糟谷教授は所詮小物だ。それ以上に、中島先生自身による、両親や姉、妻など、身内の人々に対する容赦ない批評のほうがずっと鬼気迫るものがある。母親と姉の虚栄心の強さからくる、妻との対立(武蔵中原に住んでいた中島先生の家族は「東京山の手」に対する強烈な憧憬をもっていて、対する吉祥寺出身の妻は武蔵野市と杉並区と世田谷区の外にはおそろしい異郷が広がっていると思っている、とか、すごくおもしろい)を蔑みながらさりげなく両者をもっと対立させようとするところとか、いかにも「人間嫌い」な中島節で最高である。

私はそういう妻が憎かったが、母や姉の愚かな虚栄心を打ち砕くのが面白く、そのままを母や姉に伝え、母や姉が激怒するのを見るのも愉快であった。

「自分は夫に愛されていない」という想いを抱える母と妻は、世間向けには「すばらしい家族」を演じる一方、夫に対して容赦ない罵倒を繰り返した。武蔵中原から脱出して、西鎌倉に木造の一軒家を建てたことを誇りとし、息子が東大文Ⅰに現役合格したことを近所の商店街で吹聴してまわる母親は、自分自身がそういううわべだけでしか夫や息子を見ることができていないこと、自分自身も家族を愛せていないことに気づいていなかったんではないか。そして12年ものあいだ息子を大学に通わせ、ウィーンの私費留学の費用をすべて持つのだ。

「こいつは、蝶よ花よと育てられている」

この教授の台詞を耳にしたとき、教授は両親に愛されて育ったのではないなと私は直感した。愛されて育ったのであれば、私が両親から真に愛されてはいないことに、両親との関係に潜む不自然さに気づくはずだからである。

この本の中で少しだけ流れる幸福のバイブスは、自分の立ち上げた若手による「カント研究会」で「カントを一生の伴侶に選んでしまった」仲間たちと熱中した討議を行うところだ(その記述は1行で終わって、そのあとのどす黒い大学人事の話題になるのだが)。それは、相当の実力と教養を備えた者たちにしか見えない地平で、そこにたどり着ける者は限られている。中島先生は、自分と両親とを病的ともいえる「共依存」の関係にあると冷静に分析し、ほとんどすべての周りの人間を嫌いになり、自分自身も受け継いでしまった病的な虚栄心と、そこからくるどす黒い気持ちと常に寄り添いながら、その地平に到達した人なのである。

 

不幸論 (PHP新書)

不幸論 (PHP新書)

 

 

東大助手物語

東大助手物語

 

  

ちなみに、どのくらいご興味あるかわかりませんが、私が美学研究室でおもに師事していた先生の本はこちらです。 

 

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

 

 

聴衆の誕生

聴衆の誕生

 

進学とか、ゼミとか、試験とか、卒論のことを考えずに読んだらとても面白い本でおすすめなのですが、在学当時はこの本が「面白い」ということが私にはわかりませんでした。

 

以下は自分のための回想です。

 

前にまとめたとおり、私はもともと「学習欲」が薄く、「いかに少ない学習で効率的に正解をたたきだすか」ということばかりを気にして生きていた。「それって、なんの役に立つの?」と思ってしまったらもう全く興味を失ってしまう。高校生まではその考え方に支配されていて、ソフィーの世界も「哲学部分すっとばし」、京極夏彦も「仏教部分すっとばし」で結末だけ読むような、人文学の素養およそゼロな学生だった(ついでに言えば、旅行に行くのも嫌いだった。なんの役に立つのだと思っていた)。そんな私が、「音楽を批評するにあたって一番の権威を身に付けたい(?)」みたいな気持ちで哲学の極北である美学藝術学研究室の門を叩いてしまったので、相当な落ちこぼれとして研究室の2年間はなにもわからないまま過ぎていったのだ。美学の研究室で学んだことは「なんの役にも立たないことこそ学ぶ価値がある」というただ1点につきる。「最近はエスカレーターに興味があって……」という飲み会の与太話を大変おもしろがってくれたのは西村先生である。そして私は卒業後にエスカレーターのサイトを始めるのだけど、そこは「権威」が存在しないパラダイスだった。本当になんの役にも立たないことをただやり続ける、ということの喜び、ひとつずつ自分の手で発見していく、ということの喜び、価値があるとか誰かに勝つとかじゃなくて、「知るということ、学ぶということ自体が楽しい」ということは、私はすべてエスカレーターに教わったのである。

 

※4/1 最終段落追加

*1:美学藝術学の認知度が低く、たいていの場合、美術史や博物学と、ひどい場合には実技科目と勘違いされてしまうため、哲学としています