『勉強できる子卑屈化社会』を読んで、自分は「勉強できる子」ではなくただの「感じ悪い子」だったんだナァとスッキリする、など。

勉強できる子 卑屈化社会

 

界隈を介しての友人で(最後にお会いしたのがいつだったか覚えてないが)、上海に行った時には素敵な情報提供もしていただいた前川さんの新著である。私の様々なこじらせの部分にモロに触れてくるタイトルなので、読めないし、読めなくてつらい。という本がこれまでに何冊かあったのだが、そのうちの1冊だ。それらのこじらせについてあらためて整理する必要に迫られ、意を決して今回こじらせ関連書籍を一挙購入した。

結果として、自分はこの本に登場する「勉強できる子」ではない、ということがわかったのが大きな収穫であった。そのあたりをまずは説明したい。

「学習欲」と「顕示欲」をわけて考える必要性

前川さんの主張の骨子は、「スポーツができる子は褒められるのに、勉強ができる子がストレートに褒められないのはおかしい」ということだ。

「勉強ができることも、スポーツができることと同じように、持って生まれた才能のひとつである」というようなことが書かれているのだが、私は能町みね子さんのインタビューで小学校〜中学校時代のエピソード(すでに理解していることばかりなので学校の授業は暇だったとか、中学最初のテストで学年1位をとるとか)を読んでのけぞった。このひとたち違うぞ、本当に才能があるひとだぞ、と。なぜなら私はわりと「必死で」「先生の顔色を常にうかがって」「とにかく周りに勝つために」「学校の授業をメインに結構な時間を勉強に費やして」いたからである。それで思い出したのが、私は中学入学時点でも、高校入学時点でも、学年順位は中の下だったよな、ということだ。それぞれの3年間、「大好きな先生の授業で100点をとって褒められたい」あるいは「大嫌いな先生の授業で100点をとって見返したい」ということだけに常に照準をしぼっていた。その結果として、中学最後のテストで学年1位、東大合格というところまで「昇りつめた」のである。どちらかというとビリギャルみたいな感じである。

そこで思ったのが、この本に出てくるような、小さい頃から学習欲が旺盛で自然と勉強ができるようになってしまった才能あふれるひとたち、は、たしかに偏見を持たずにもっとストレートに褒められて然るべきであるが、私のような顕示欲丸出しでとにかく周りに負けたくない、先生に褒められたい、すごいと自慢したい、という気持ちからのしあがってきた者は、周囲の「色眼鏡の偏見」もあながち色眼鏡じゃないというか、その通りですと認めざるをえない部分が多くある。勉強ができるから卑屈になったんじゃなくて、もともとが感じ悪い子だったから勉強できるようになったのだ。

「スポーツバカ」という言葉はあっても「勉強バカ」という言葉はない

しかしながら、そこまで負けず嫌いの私が「勉強」に向かったのは、他に比べたら「勉強」が一番自分に合っていたからだ。だからして、私が持久走でビリでゴールするときに拍手を送ってる場合ではなく、テストの点がクラス1位だったときに普通に拍手してくれたらよかったじゃん、なんだよ、という気持ちはもちろんあるのだが、この本では、「スポーツができる子は褒められるのに、勉強ができる子がストレートに褒められないのは、なぜか」ということにも、様々な観点から考察が加えられていておもしろい。日本では大学教育が始まったほとんど最初期から「大卒は役に立たない」論があったとか。へぇ〜。そんな中で、私がちょっと考えたのは、日本人って「〜バカ」が好きだよね、ということだ。たとえば、「スポーツバカ」とか「楽器バカ」とか「将棋バカ」とか、それに夢中で他のことを顧みない状態を指す言葉があるが、「勉強バカ」とは言わない。なぜかというと、「〜バカ」というのは、なんにも役に立たないことに夢中である様子を指すからだ。しかも往往にして、揶揄する目的で言われるのではなく、そういう状態のひとを微笑ましく見守る、褒める、感嘆する、ということが起きる(「エスカレーターバカ」であることを「そこまで愛があるってすごい!」と何度褒められたことでしょうか)。それにあてはめるには、勉強はストレートに立身出世や金儲けに役立つので分が悪い(かと思えば東大卒は役に立たないとかも言われてダブルスタンダードですけど)。前川さんの主張するのは「そういう立身出世的な意味で勉強が好きな子ばかりではない」ということであろうと思うが、私が思うに、ストレートにそういう意味で勉強が好きな子もけっこういる。

学習環境の優位性

東大に入った時点で周りには、ストレートに「顕示欲」に浸かっており、そのことにとりたてて後ろめたさも覚えない素直な人々が結構たくさんいた。文1から官僚に、文2から大企業に、というような将来の展望を何の衒いもなく素直に語る人々や、受験戦争の勝ち組であることを素直に誇りに思っている人々である。むしろ、「私は受験戦争になど興味はないが、東京に出るために東京の大学を受ける、ならばできるかぎり国立大学を目指す、学部は東大文3、もしくは早稲田の1文しかありえない」と頑なに考えていた私は、かなり屈折した欲望にからめとられていたと思う。

話は変わるが、少し前に東大が女子学生を増やす施策を発表した際、ゆるい取材を受けた。「なんで東大だけ女子率低いんだと思いますか?」という質問に、出身高校ランキング上位独占の私立高校のほとんどが男子校だからじゃないですか、と返答して我ながら、あ、これ正解じゃね、と思った。東大だけ私立出身の割合が異様に高いらしいし、それで親の年収が高いことも女子率の低さも両方説明がつく。単純に受験科目数が多いのと、人工知能も諦めるぐらい二次試験の問題が特殊すぎて、独学がほぼ不可能なのだ。私の高校では文系の場合すべての科目で東大に照準を合わせた授業がされていて、あの高校に入ってなければ東大なんてそもそも目指していない。

前川さんはそもそも「東大」だけの話はされていないのだが、ご出身である地方の公立校の事例を「普通」として語られると、おそらく東大のマジョリティに属するであろう「親がそこそこの高学歴かつ高収入で、教育熱心であるかどうかはともかく、少なくとも小学校・中学校時点で自分の出身校に子どもを入学させることに環境面での援助は惜しまなかった」という、私立あるいは国立の名門校出身勢はモニョモニョとすると思う。これらの人々は、小さい時から自宅から離れた学校に通うから、近所の公立校の子たちから「ものすごい色眼鏡」で見られており、地元の大人たちにも主に金銭面での優位性に対する「ものすごい色眼鏡」で見られており、その代わり、校内においては極めて同質性の高い集団でいるためわりと伸び伸びと過ごすことができる。なので、「校外ではけして口にしないストレートに権威主義的な発想」をけっこう素直に持っているのである。校外でそんなん言ったら袋叩きに合うよね、という暗黙の了解も含めて。

「やりたいようにやろう」ということ。

そういうわけで、この本を読み終わって私は、「もともと親が金持ちで、自分自身は顕示欲にまみれた嫌な性格を持っており、その結果として、そこそこ勉強ができるようになってしまいましたすみません」となんとなく冷静に自分の人生を振り返るに至ったのだが、それでも「勉強できるってだけで卑屈になることはない!」というこの本の主張に全面的に同意する。要は「そんなレッテルに縛られず、やりたいようにやったらいいじゃないか」という話だからだ。めっちゃ嫌な性格だけど勉強だけはできるというひと(私)もいるだろうし、あるいはスポーツやってるけどめっちゃ性格悪いってひともいるだろうし、親が金持ちだけどものすごく素直で素敵なひとは実際何人も目にしたことあるし、「〜〜だから、あいつは〜〜なんだ」っていうすべての言説を否定していこう、という話。「あいつは〜〜なんだ」だけ、言えばいいじゃないか、ていう話。私に至っては、「自分がこんなにこじらせているのは〜〜なせいだ……」などと自分自身でレッテルを貼りながら過去を振り返りがちであったのだが、べつにそうじゃなくて、もともとそういう性格じゃん、あんた。というのがわかっただけで、だいぶスッキリしたのである。

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

 ※ 2017/3/26 一部修正