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別冊 東京エスカレーター 07

 

これは恋の物語なのか?『最強のふたり』感想

最強のふたり (字幕版)

 

 

脊髄損傷で首から下を麻痺した大富豪フィリップと、移民の介護人ドリスの友情の物語。フィリップとドリスの、ふたり一緒に過ごした幸せな時間が、本当に幸福すぎて、観ている最中「ずっと終わってほしくない」と思っていた。フィリップのためを想うドリスの行動は、すべて有償の介護の域を逸脱し、「そんなことされたら惚れてしまうだろう」とおもうような献身的な愛がそこには感じられる。原題は『The Intouchables』。可算名詞で「社会ののけ者」という意味であることを踏まえた上で、これは禁忌の恋の物語なのではないかとすら思った。

自分には何もできない、何も与えられない

最愛の妻を病気で亡くしたフィリップは、「自分には何もできなかった」という強い後悔の気持ちから、深い悲しみの中にある。大富豪で、持てる物はすべて持っているフィリップはドリスに、「自ら望んで」脊髄損傷といういまの状態を選んだのだ、とすらとれる告白をする。自分には何もできないし、何もする気はない。死ぬことすらできないから、ただ生きているだけだと。

これは実話をもとにしたドキュメンタリーであり、本来の主旨としては、障害者と移民、という、社会ののけ者のふたりが、ユーモアを媒介に交流するお話。ということになる。ただ、映画という物語の装置を通してこれをみたときに、その構造は、設定から想像されるような、相互の交流を通した自己回復の物語としてみることができない。パリ郊外の団地に暮らし、自分も逮捕歴があり家族の問題も抱えなにも持たずに生きているドリス。想像するのはやさぐれて仕事もないドリスが介護を通して成長し「改心」していくよくあるストーリーだが、じつのところ、フィリップの介護を始めたときからドリスはすでに、素晴らしい人格者であり、同時に自由奔放な性格や行動は、相変わらずそのままなのである。

ではなんの物語だとしたらしっくりくるのか?ということなのだが、それはやはり「恋愛の物語」にほかならない。

もう一度ひとを愛することで生き直す人生

クラシック音楽現代アートを愛好するフィリップと、ダンスミュージックや下ネタが大好きなドリス。これは映画化するにあたっておそらく脚色しているのだろうと思うが、正反対な趣味嗜好が強調して描かれている。ドリスはずっとその調子で全く変わらず、フィリップに合わせるようなことは一切しない。しかし、そんなドリスがどんどん好きになって、一緒にいるともう楽しくて仕方ない、という状態になっていくのは、一方的に、フィリップのほうである。

物語のはじめのほうに、ドリスが障害をネタにしたギリギリのギャグを笑いながら言うシーンがある。一瞬、差別的発言なのかと警戒するフィリップが、そこに一切の侮蔑の感情がないことを理解した瞬間、その恋ははじまっていく。ドリスは、障害をまったく抜きにして、そのギャグをフィリップとただ共有したかったのだ。

そんなふうに誰かと、同情も金銭的な対価も抜きにしたもっと深い部分で気持ちを理解しあうことは、もう二度と不可能だと思っていたフィリップにとって、ドリスがかけがえのない存在になることは自然に理解できる。

フィリップが持っているのは身体の障害だが、誰でもそういうふうに思うことはあるだろう、「私は__だから、あなたに私の気持ちなんてわかるわけがない」と。フィリップはそうやってすべてを諦めていた状態から、自分自身が、趣味嗜好も立場もなにもかもを超えてドリスを好きになることで、もう一度人生を生き直そうとする。

結末が重要ではない恋愛映画

 

(以下、結末に触れます)

 

実話では、ドリスが女性のパートナーを見つけたことをきっかけに介護職を離れることになるそうだが、映画ではそれをフィリップに書き換える脚色がされている。このちょっとしたねじれが、恋愛映画としてはちょっと奇妙な読後感を生んでいる。

映画の途中で、自分からはなにも与えられない、与えられる一方の関係を解消したフィリップだが、それはドリスのかけがえのなさを強調することにしかならなかった。

ある夜に呼び出されれたドリスは、幻想痛という難しい症状に苦しむ彼を、海の見えるホテルに連れていく。ここからのシーンは非常に謎が多い。前半の明るさと打って変わってシリアスな、重々しく切ない演出。明らかにドリスの生活圏にはないホテル、それにレストランは、ドリスの名前で予約がされている。そして、いつのまにか彼はフィリップの文通相手の女性を探し出していて、しかもそのレストランに連れてきているのである。いったい、どうやって?

すんなり解釈するなら、これはほとんど、フィリップの夢に近い。ドリスならこうしてくれるかもしれない、ドリスとこんな場所に来たい、そんな想いをまだ強く持ちながら、新しいパートナーの女性と踏み出していく、そういう結末になっている。

映画ではハッピーエンドとして描かれているが、終始一貫してドリスに片想いしていたフィリップの恋は、結局のところ失恋に終わっているともいえる。それは男性同士の恋だからかもしれないし、ドリスのフィリップへの愛は常に家族的な慈愛に満ちたものだったのでそのせいかもしれない。ハッピーエンドなのか失恋エンドなのかよくわからない結末なんていうのは、他の恋愛映画にはほとんどないだろう。でもそのことが「結末に左右されない、すばらしい恋愛をしたこと、それ自体」の楽しさ、おもしろさをむしろ強調し、どんな作品よりも、「恋をしたくなる映画」になっているのだった。