読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

母娘関係のメジャー化と脱構築 映画『海街daiary』

吉田秋生さんといえば、『BANANA FISH』に代表されるような、「THE・父殺し」のマッチョなアクション漫画を描く方、という印象であるが、最新作の『海街diary』は、鎌倉の街を舞台にした日常を丁寧に描いた、今までの作風とは少し違った作品である。

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃

 

 

 

といっても、吉田さんの作品では一貫して「母」の影は薄く、『海街diary』でも、「父の死」を出発点として、「不在である父」を中心に物語は進行していく。

 

しかしこの映画版では、漫画版では日常の中の1ストーリーとして触れられただけだった「母と娘」の関係が、当たり前のように主題としてクローズアップされている。

 


海街diary予告篇

この予告篇が映画見る必要ないんじゃないかという感じによくできているのだが「親を許せない 長女」(綾瀬はるか)「自分を許せない 四女」(広瀬すず、尋常でないほどかわいい)、次女(長澤まさみ)と三女(夏帆)は映画版ではほぼオマケみたいなもので、この四女の存在が、長女と母の間にある問題をより浮き彫りにする、という構造になっている。

その問題は、より具体的に書くと、「自分も母親と同じになってしまうかもしれない恐怖」である。

 

(以下ネタバレを多分に含みますがネタバレがどうこうという作品でもないかもしれない)

 

長女は、自分たちをおいて家を出た無責任でだらしない母親を嫌悪しており、自分はそうはなるまい、自分は「正しく」ありたい、と気をはって生きている。

四女は、父の不倫の結果できた子で、人の家庭を不幸にした母親をやはり許せないでいる。しかし、父も母もすでに他界しているため、その「許せなさ」は自分自身に向かっている。

なのだが、映画版だとなんかぼやっとした感じで登場する長女の恋人(堤真一)は、じつは既婚者であり、長女もやはり、人知れず不倫の関係にある。

このちょっと複雑な関係にある長女と四女が心を通わすことによって、自分の考えていた「正しさ」に脱構築が起こる。

 

漫画版だと、この二人が戦っている「正しくなさ」の象徴は、圧倒的に不在である父なので、ああ、吉田秋生さんらしい「父殺し」が新しい形でここにも生きているな、と思うのであるが、映画版では完全に母親(大竹しのぶ、というか大竹しのぶが母親役をやるからにはそうならざるをえないこの感じ)になっている。

 

是枝監督はこれまで、『誰も知らない』『そして父になる』(我ながらちょっと驚いたけどいずれも未見)など、メジャー化する一歩手前ぐらいの「ちょっと普通ではない家族問題」を扱う監督だという認識があった。そして母娘問題を正確に描けるのは女性作家である、という認識も同時にあった。しかしこの作品では、男性である是枝監督によって、ほとんど、「こういう母親なら娘の葛藤ってこうだよね」ぐらいの感じで、原作でもさらっと触れられる程度であった母娘関係のこじれが、主題としてきわめてナチュラルに(なんというかさほどこじれずに)描かれている。

個人的な感想として、斎藤環さんの提唱してきた母娘問題がここまでメジャーきたのかと、少し驚き、新鮮な気持ちである。

 

母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)
 

 

母娘関係の呪縛を断ち切るのは、自分の「許し」でしかないのだ、というところは「母娘」を描く作品に共通した部分である。その「許し」はいつも、二者の関係を脱構築する第三者によってもたらされる。

 

たとえばあまちゃんでは、春子と夏の関係を「アキ」が脱構築する。

 

どうにもならんと思っていたこじれがメジャー化することによって、少しそんな構造が見えてきた。

 

関連:

yowattatoki.hatenablog.com