おしらせ:2017/8/12(土) コミックマーケット出展します。新刊出します。詳細こちら。

8/12 C92 土曜日 東5ホール ヘ-39b 「東京エスカレーター」出展のお知らせ - TOKYO ESCALATOR BLOG

 

心の真ん中にどかんと居座る暴力的な愛『バケモノの子』

おおかみこどもの雨と雪、につづいて、普通とはちょっと違う家族のお話をファンタジーを通して描いたシリーズである。娘である雪の気持ちにも、花の気持ちにも簡単に移入できたおおかみこども、と違って、ただただ父親に対しては「娘」でしかない私は傍観者として見守るしかなく、そういう意味ではこれは男の子の話だし、真の意味で物語の本筋を理解してるとは言い難いだろう。そうして傍観した上で、父親の「身勝手な巨大な愛情」に完全に心揺さぶられているのでざまあないのであるが、そういう私の個人的な事情はさておき、この映画を「主体的」にみるとどうなるのだろうか?という素朴な疑問に焦点をあてる。

例によって既出のレビューは参照していないし劇場パンフレット含め映画以外の予備知識は一切ない。

 

バケモノの子(スタンダード・エディション) [DVD]

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弱い父親

主人公の少年は、両親が離婚し、母親が若くして他界、この世にひとりぼっち。理解のない親戚から逃れて、バケモノの世界に舞い込み、半端者のバケモノ、熊徹に弟子入りし、「九太」と名づけられる。
血のつながらない家族の愛の話(最近では政治的に正しいディズニーによる『マレフィセント』などがあった。マレフィセントを演じたアンジェリーナ・ジョリーもまた、自ら養子をとり育ての親として生きている人である)、あるいは、師弟関係を通じた相互の成長物語、をあてはめてももちろんよいのだが、私が真っ先に想起したのは実の親子の物語である松本大洋の『花男』だ。
 

 

 

 

花男(1) (ビッグコミックス)

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大人になりたいと願う少年の前に現れる、見知らぬ父親。弱くてダサい男を、自分自身が強くなることによって「父親」として認められるようになるまでの成長物語。おおかみこども、あるいはイグアナの娘、では、「娘が人間に見えない(愛せない)」母親の葛藤を描いていたけれど、ここでは「父親がバケモノ(あるいは得体の知れないバカ)に見える(理解できない)」少年の葛藤が描かれる。これは、絶対的な父(神)が存在するキリスト教圏では類型が見つけづらい、「弱い父親」の系譜である。
 

ろくでもない夢を追う家庭の部外者としての父親

(以下ネタバレ含みます)
本当に不思議だなぁ、と思うのは、花男も、熊徹も、少年の意志にはけして、寄り添わないのである。最後の最後まで。花男は、息子のひそやかな本音(また家族3人で暮らしたい)を聞いた途端逃走するし、熊徹は「高等教育が受けたい」という九太のまっとうな願いをくだらないと切って捨てる。そうしてまで彼らが貫くのは、「自分の夢を叶えること」である。花男の夢はプロ野球選手(ただし読売ジャイアンツ限定)になること。熊徹の夢はバケモノ界のチャンピオンになること。女から見るとまぁじつにろくでもない。家庭を顧みない仕事人間のお父さんですら、世の中の役に立つため、というエクスキューズを必要とする昨今、暢気なことである。
 

シンクロニシティの賛美

さらに不思議なことに、ふたつの物語は両方とも、その夢を叶えるために父親は、息子の強力な献身を必要とする。
熊徹の試合のシーンと、花男の初のプロ野球戦は、途中で息子がゲキを飛ばすところや会場の規模含め、「参照したのかな?」てくらい類似している。本当に参照したり、下敷きにしたりしているにしては「似すぎ」であり、こういう種類の「弱い父親」の話を書こうとしたら、構造的に「息子による父親の叱咤激励」のシーンが必要になる、というほうが説得力のある感じが私はする。ここで「父」vs「息子」、「教える者」vs「教わる者」の立場が完全に逆転することによって、両者の成長物語が完結し、物語の構造が補強されるのである。
結末として、どちらの物語でも息子は父と完全に同化する。『花男』における「ビリビリしたかあ!」「ビリビリしたあ!」であり、『バケモノの子』における「胸ん中の剣」である。
父は、身勝手さを貫いたまま、息子の心の真ん中にどかんと居座る。当の息子たちがはたしてこれに移入できるのか謎が残るが、傍観者としてはその暴力的な愛にくらくらする。
 

同化できなかった子の悲劇

ただ、『バケモノの子』ではもうひとり、「バケモノに育てられた人間の子」が出てくるのだが、綺麗な対比として描かれた結果としてすさまじく可哀想なことになっている。
人間であることを知らないまま「立派なバケモノ」に育てられた一郎彦は、偉大な父と自分とのギャップに傷つき、悩み、心の闇を深くしてしまう。最後まで父とは全く同化できない一郎彦は、結局救われたのか自我を抹殺されたのかなんなのかわかりづらい結末であり、本筋の「暴力的な父親の愛情」と「それとの同化」を際立たせる引き立て役としてはあまりに気の毒である。私はそもそも「女」であり一歩ひいた場所から見ているが、おそらく大多数である「父親とは同化できない」息子たちはなにを思うのだろうか。
 
花男』は昭和の父親像(家庭の部外者であり、全く家族に理解されず、無視される存在である悲しき父親)に対するおとぎ話的アンチテーゼ、価値の再構築の側面を持っていたけれど、21世紀の今私が『バケモノの子』でみたいのは、「親にめいっぱい愛され、それでも親(と親の意志、価値観)とは同化できずに悩む落ちこぼれの子どもが、どうやって自分自身の価値観を手に入れ生きていくか」という、一郎彦メインの「この先」のお話なのかもしれない。