薄汚くよこしまな大都市に生きる 『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』

私はあまり読書家ではなく、偏読が激しいのだけど、チャンドラーを1冊も読んだことがなかったのは不覚であった。

村上春樹訳の軽装版で「ロング・グッドバイ」を読んだのだけど、これは人生で何度も読み返す本になるだろうなと思う。

 

 

 私が人生で何度も読み返している本のもう1冊に、(村上春樹氏の影響で)フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」がある。「ノルウェイの森」を読んだら「グレート・ギャツビー」を読まずにはいられない仕掛けになっているのだ。でも高校生で初めて読んだときには理解できていない部分がとても多かった。

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

都市に生きることを選択した地方出身者の気分

村上春樹氏の後書きでもふれられているように、ロング・グッドバイグレート・ギャツビーを下敷きにしている可能性がある。主には、魅力的な登場人物の造形に相似性が見られるということなんだけど、村上氏の指摘のとおり、これはどちらも、都市=ニューヨーク、ロサンゼルスと、郊外=ロング・アイランド、アイドル・ヴァレーをひたすら行き来する物語で、それを地方出身者の目から語った物語なのだ。

 

ロング・グッドバイの主人公、フィリップ・マーロウは、都市に生きることを選択した地方出身者の気分をかなり簡潔に語る。

私の別の部分は、こんなところからさっさと立ち去り、二度と戻ってこない方がいいと囁いていた。しかしその部分から聞こえてくる声に、私が耳を傾けることはまずない。もしそんな声に耳を傾けていたら、私は生まれた町にそのまま留まり、金物店に勤め、店主の娘と結婚し、五人の子持ちになり、日曜日の朝には子供たちに新聞の漫画ページを読んでやっていたはずだ。(中略)そういう人生はお断りだ。私は薄汚くよこしまな大都市に生きる方を選ぶ。

グレート・ギャツビーのニック・キャラウェイの場合も同じく(こちらはもう少し具体的で詳しい事情が語られるが)、都市に生きることを選択している。初めてギャツビーを読んだ高校生のとき、自分の住む町を出る決断を既にしていた私には、この気分は共有できるものだった。

誤解していた「郊外」

しかし高校生の私が完全に誤解していたのは、「郊外」というポイントのほうである。ニューヨークに行ったとき、マンハッタンとロング・アイランドとの位置関係をものすごく誤解していたことにやっと気づいた。

私の中ではグレート・ギャツビーは「ニューヨーク」というおっきな都会の中で起こっているめくるめく話だったが、実際はそうではない。重要なシーンのひとつに、ロング・アイランドからマンハッタンまでのドライブのシーンがあるけれど、そのドライブの車窓の光景を、超短期ホームステイのプランでロング・アイランドにある郊外住宅地に1週間滞在し、ようやく実際に理解した。そのなにもない町からマンハッタンへの毎日の電車から見える景色は、だんだんなにもない土地に建物が増え始め、その建物がだんだん高くなり始め、橋を渡って劇的に大都会へと突入する。毎日上京と帰郷を繰り返すような独特の雰囲気だった。

郊外の大きさは、都市の大きさをそのままあらわす。実際私が住んでいた場所は金沢の郊外以外のなにものでもなかったということを、かなり最近になってから知ったのだけど、そんなことに気づかないくらいに金沢の都市サイズは小さい。金沢で「マチ」といえば片町のことで、それ以外にはない。

東京には「いろんなマチ」があり「いろんな郊外」があるが、地方出身者でも、ある程度の時間をかければ「マチ」については把握できる。渋谷・新宿・池袋・上野。有楽町・秋葉原・北千住、吉祥寺。マチはヨソモノを受け入れてくれる場所である。でも「郊外」についてはそうはいかない。どんな郊外でも、知らない顔の、その町のマナーに沿っていない人間がいれば、まず警戒をする。その雰囲気が私はかなりはっきりと苦手で、余分な家賃を払って東京でも超都心といわれるエリアに住み続けてきた。

 

傍観者として見つめる「郊外」

グレート・ギャツビーロング・グッドバイに登場する、ウエスト・エッグ、アイドル・ヴァレーという土地はさらに特殊で、お金持ちのために作られた、お金持ちだけが住める場所だ。

湖の反対側の丘には青い靄がかかっていた。海からの微風が低い山並みをすり抜け、西に向かってようやく吹き始めていた。それで空気はきれいになったし、熱気もほどほどに吹き払われた。アイドル・ヴァレーはまさに理想的な夏を手にしていた。そうなるように誰かが怠りなく設計をしたのだ。管理の行き届いた楽園。誰でもここに住めるわけではない。いや、ほんのひと握りの人しか住めない。中欧や東欧の出身者は間違いなく門前払いだ。社会のいちばん上の段に属する、くもりなくこぎれいな、選び抜かれた人種だけが住人として受け入れられる。たとえばローリング夫妻やウェイド夫妻のような、まさに社会の至宝ともいうべき人々が。

ロング・グッドバイのマーロウも、グレート・ギャツビーのキャラウェイも、その場所に入り込むことはできない。ただ、傍観者、観察者としてそこで起きる様々な物事を記録する。

ある程度、都会生活に慣れてきたところで本格的に味わう地方出身者としての疎外感。自分がどれだけ努力してもたどり着かないし、たどり着けないし、たどり着きたくもないどこかに、自然と身を置いてきたひとたちがいて、そのひとたちに嫉妬や憧れを感じるでもなく、圧倒的な他者としてただただ興味深く見守るしかないという感じ。東京に住んで10年になってようやく、この気分がわかってきた、ような気がする。

(2014年3月に書いた記事を再録しています)