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有限の時間の美しさ 堀辰雄の『風立ちぬ』と『菜穂子』

映画に違和感をもったら、そこがまさに、自分なりにその映画を読み解くカギになる。

 

風立ちぬ』を二郎の物語として観て、私は完全に感情移入した。しかし、二郎と菜穂子のふたりの物語としてみると、その関係には不可解な部分が多いと思う。

菜穂子は単に二郎の犠牲者なのではないかという声もある。

ので、まずは原作を参照してみた。

 

風立ちぬ/菜穂子 (小学館文庫)

風立ちぬ/菜穂子 (小学館文庫)

 

 

以下、堀辰雄の『風立ちぬ』と『菜穂子』から引用されてるエピソード。

○がそのまま引用されたもの、×が「あえて変えられている」もの。

風立ちぬ
○主人公「俺」とヒロイン節子は避暑地のホテルで親交を深める
○風が吹いて節子の油絵がとばされる
○菜穂子の自宅を見舞った「俺」は庭から幾分乱暴に靴を脱ぎ捨てて節子の病室へ入る
×病状の悪化した節子とともに「なんでしたら僕も一緒に」とサナトリウムへついていく
○「俺」は節子に接吻
○夜、病床にある節子に見つめられながら「俺」は仕事をする(小説を書く)
○節子が眠るとき、繋いだ手を離さない

『菜穂子』
○未亡人となった菜穂子の母と小説家の森はパラソルをさして歩きながら背後の虹をみる、森は虹に感銘をうける
×母の死後、菜穂子は圭介と結婚するが、姑の干渉などにより不幸な結婚生活を送る。
○菜穂子の夫圭介は妻のいるサナトリウムをたずねない。ただし仕事のためでなく姑の干渉のため。
×一度だけサナトリウムをたずねた圭介は、菜穂子のベッドの隣でタバコを出す。が、廊下に出て吸う。
×菜穂子に手紙を出すのは圭介でなく姑
○菜穂子は手紙を読むと黙って外套を着込んで三等車に乗り込み東京を目指す
×圭介は新宿駅から電話をかけてきた菜穂子を迎えに行くが、病気の姑のいる自宅には迎えず、麻布のホテルにひとりで泊らせる。

そして宮崎版での二郎と菜穂子のエピソードを整理するとこう。
「」がオリジナルエピソード

 

  • 「汽車での出会い(風が関与)」
  • 「避暑地での出会い(風が関与)」
  • 菜穂子に虹をみせられ、じょじょに自分を取り戻す二郎
  • 「婚約」
  • 病状のおもわしくない菜穂子を自宅に見舞う
  • 菜穂子はサナトリウムに「ひとりで」入ることを決意
  • 二郎は菜穂子を見舞わず、サナトリウムで孤独にすごす
  • 菜穂子はサナトリウムから二郎のもとへ行くことを決意
  • 「結婚」
  • 「離れでのふたりきりでの親密な生活」
  • 病床でたばこを吸う描写、仕事をする描写、手をつなぐ描写、接吻
  • 「死期をさとった菜穂子はふたりの家を出る」


堀辰雄の『風立ちぬ』も『菜穂子』も、宮崎版での二郎と菜穂子みたいにお互いを完全に理解している「夫婦」の描写がまったくない。『風立ちぬ』のふたりは、気弱になったりはかなげに微笑んだり常に死期を悟って揺れる心の推し量りあいをしている。『菜穂子』の夫婦生活は初めから気持ちが通い合わず、不幸で、最後に麻布のホテルの一室で、たった一度、お互いの気持ちが重なりかけて、そしてすれちがい、また離れていく。つまり堀辰雄の2作品は、そういう気持ちのかけひきを描いた正当な「恋愛物語」である。

 

が、それに比しての二郎と菜穂子は、ほとんど出会ったときから強烈にお互いを必要としていて、一心同体で、気持ちに一切の迷いもぶれもない。これは「恋愛物語」とは言えず、どちらかというとポニョと宗助の関係に近く、菜穂子もまた「自分を一心に愛してくれる分身」なのだろうかと感じる。ただし、「二郎の物語」にのみ焦点を当てるのであれば。

 

映画には引用されていないけど、『風立ちぬ』にはかなり重要なセリフがあった。

 

……あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰ったことがあるでしょう。……私、あのときね、それを思い出したの。何んだかあのときの美しさがそんな風に思われて

 

おれはお前のことを小説に書こうと思うのだよ。それより他のことは今のおれには考えられそうもないのだ。おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、――皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、――そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。分るだろう?

 

宮崎監督はこの主人公の「もっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに」という願いをひきうける。そして、「俺」や菜穂子のみた夢(ふたりきりでの親密な生活、サナトリウムを降りて夫とふたりで幾日でもいいからすごしたいという気持ち)を、はっきりと具現化する形で、映画をつくっている。それは、単に二郎の物語に同時代の薄幸の美少女との悲恋を引用しただけとはとてもいえず、堀辰雄の描いた当時のリアルからは完全に逸脱する、とても強引なフィクションになっている。

 

その物語の強度は、堀辰雄の「時間が有限である」菜穂子の物語に、新たに同じく「時間が有限である」二郎の物語をかけ合わせることで生まれている。そうすることによって、「限りのある時間に、ただ一生懸命生きる」というふたりの気持ちは、はじめて同情や気遣いを超えて、完全に重なる。そして二郎は、有限の時間の中で、自分の美しい飛行機を完成させ、菜穂子は、有限の時間の中で自分の美しさを完成させる。まったく同じ気持ちを共有するふたりには、まったく迷いがなく、お互いをお互いに強烈に求めあい、ほぼふたりでひとつのように見える。

そして同時に、大正~昭和初期の日本も、日本が"破裂"("破裂"は映画の中の表現)への道を歩み、「もうすぐ終わりがある」ことを、特に二郎たちのような知識人は明確に自覚していた「有限の時間」だった。その中で生きるひとたちは皆、"破裂”を知りながらも懸命だった。

 

堀辰雄の描く「生に限りのあることを自覚する者だけが知る美しさ」の物語を、二郎の零戦の物語と、当時の日本の物語とで強度を増し、さらにジブリの緻密で精細な描写で描いた、これは、ある「美しさ」についての映画だ。

 

風立ちぬ [DVD]

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(2013年8月の文章を再録しています)