読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『ジュマンジ』をめぐる2つの批評練習 - 父性の賞賛、母性の完全否定

Ⅰ.権力論による批評

1.父親

物語冒頭の舞台は、1969年、ニューハンプシャー州の名家パリッシュ家で、主人公の12歳の少年アランは、製靴工場を営む厳格な父親にいつも叱られている。理由は、アランが自分の気の弱さのためにいつも同級生にいじめられ、12歳にもなって男らしくないからで、そんな父親に対しアランは反発的な心を抱えているが、面と向かって反抗することはできない。そして彼は、父の不在時に、「ジュマンジ」というゲームを始め、ゲームの中のジャングルに吸い込まれ、舞台は26年後の1995年に移る。そこで2人の子どもたちがゲームを再開させたことによって、ジャングルからやっと帰還したアランは、26年間ジャングルで1人きりで生活していたはずが、気の弱い性格は元のままで、喧嘩したまま別れた父親が、彼のことを思うあまりに工場をつぶしてしまい、さらに既に他界したことを聞いて、ひどく後悔する。

 

2.ゲームの監視者

ゲームはサイコロを振るとコマが進み、コマごとに現れる謎めいた予言が現実になるという設定である。ゴールまでたどり着き、誰かが「ジュマンジ!」と叫ぶと、全てがゲームを開始する前に戻る。サイコロを振ったつもりではなく落としてしまっただけでもコマは進むが、反対に、意図的にある目を出そうとする試みは見抜かれてしまい、その者に罰がくだされる。つまり予言や罰は、「ゲームのルール」という平等の基準を持つようにみえて、実際には人為的に与えられるものであり、ゲームそのものというより、ゲームの製作者、あるいはどこかに存在する監視者の存在を感じさせる。そしてその存在が不明であり、見えないということで恐怖を増長させる。この見えない監視者は、冒頭で姿を消したアランの父親を暗示させるものである。

 

3.ヴァン・ペルト

ゲームには途中で英国人のハンター、ヴァン・ペルトが現れ、ゲームのルールに従ってアランのみを殺そうと執拗に追い続ける。しかし、「アランを追う」ことを告げる予言が現れる前から、アランはジャングルで彼に追われており、ヴァン・ペルト登場の前にそれを予期し、恐怖に陥る。そしてジャングルでヴァン・ペルトが彼を追う理由は「アランが男らしくないから」である。さらに映画では、父親役のジョナサン・ハイドが一人二役でヴァン・ペルトを演じており、これはもはや暗示どころではない。

 

4.動物たち

ゲームの予言で現れる様々な災難は、ヴァン・ペルト以外、食虫蚊、猿、ライオン、動物の大暴走、人食い植物、ワニ、大蜘蛛と、全て自然のものであるが、特殊技術が駆使されているにも関わらず、それらはいかにもリアルではない。それは、子ども向けの映画であるこの作品において、「本物の動物はこれほど獰猛ではない」ことを示そうとしたという作り手側の配慮があるからであり、そのことは事実として一般に明らかにされている(そして作り手が最もリアルさにこだわったのが、最後に発射されるヴァン・ペルトの銃弾である)。さらに、登場する猿たちは、人間の本能をむき出しにしたような行動を街中で起こし、人食い植物は意志があるかのように、アランたちの不在を見計らって家を覆い尽くす。ここでも強調されているのは、あくまで意図的、人為的に起こる災難である。

 

5.ジュマンジ

これらの理不尽で人為的な災難は、最後に、アランが「ジュマンジ!」と叫ぶことによって、ヴァン・ペルトを含め、全て消え、アランは1969年の12歳の少年に戻る。そしてゲームが再開してからわずか1日のうちに、26年のジャングル生活でも得られなかった「男らしさ」を得たアランは、父親に正直に接することによって認められ、全てが成功し、物語はハッピーエンドを迎える。「ジュマンジ!」というこのセリフは、権力の理不尽な側面をアラン自身が全て消し去る、つまり彼の中でそれらを無いものとすることで権力を受け入れる、約束のようなものである。そしてそれはまた、父親の不在、つまり権力の不在状態になって初めて、権力の大切さを学んだためでもある。こうしてアランは「大人」になり、「大人」になった者だけが、幸せな結末を得ることができるのである。
そしてアランによって川に流されたゲームは完全に封印されることなく、権力に抗おうとする子どもたちに教訓を与えるため、存在しつづける。

 

Ⅱ.フェミニズム批評

1.母親の不在

この映画で登場する主な「女性」は、1995年にゲームを再開させる2人の子どものうち、姉のジョディ、両親を事故で失った子どもたちを引き取って育てる叔母、1969年にアランと一緒にゲームを始め、26年後ゲーム再開のために呼ばれるあやしげな占い師サラの3人である。ジョディは両親の死すら大げさな作り話にしてしまう嘘つきで困った子どもであり、叔母は自分の仕事に走り回り、2人の子どもの教育に関しては無関心かつ奔放、サラは、目の前でアランが消えてしまったことがトラウマになり、人格的に不安定である。3人とも「女性」に求められるしとやかさ、包容力などの要素を、それぞれ両親の死、仕事、精神的トラウマという障害によって持っておらず、「女性」として不完全である。さらに、アランの母親は重要な再会シーンで登場しない。つまり、この映画で本当に不在なのは、父親ではなく母親である。

 

2.アランとサラの関係

映画の結末の「幸せ」な光景では、ジョディとピーターは家族全員がそろい(叔母は登場しない)、サラはアランの子どもを妊娠している。しかしこのサラの妊娠は、単なる家庭円満の象徴としてだけで済ませることはできない。ここで重要なのは、まず、「母親」が初めて登場するということ、そしてアランとサラの関係が清算されることである。
ゲーム続行のために無理矢理参加させられるはめになるサラは、初め自らのトラウマの元凶となったアランを見るだけで卒倒してしまうが、その後のストーリー展開上、とりたてて特別な要因もなく、アランに心惹かれていく。これは、アランがたった1日で「男らしさ」を獲得することを無理矢理に示すファクターの1つと考えられる。しかし、そのサラの求愛行為に対して、アランの反応はいかにも微妙である。まず、大人の状態でサラにキスを迫られるとき、アランはあからさまに拒否の素振りをみせる。そして、1969年に戻ったとき、「子どもに戻る前にしておきたいことがある」とサラはアランに再びキスを迫り、実行する。そのシーンは、先ほどまで大人だったアランとサラが、純粋な思春期の気持ち、はにかみや戸惑いを取り戻す瞬間を描いた名場面として見ることもできるが、やはりアランは挙動不審である。父と息子という関係とはいえ、その前の父親との熱い抱擁を思い出すにいたって、アランはゲイではないかという疑惑さえ生じる。冒頭から「男らしくない」ことで父親に叱責されてきたアランは、本当に「男」になれたのだろうか。

ゲームによる理不尽な災難に立ち向かうアランだが、肝心な場面では1度も自分で災難に打ち勝ってはいない。初めにライオンが出てきたときには、叔母の寝室に閉じ込めるのみでとどめをさしていないし、ヴァン・ペルトが出てくると、しばらく残りの3人をほったらかしにして自分は逃げてしまう。大型スーパーでヴァン・ペルトをやっつけるのは、姉弟の弟ピーターであり、洪水のシーンでワニから助けてくれるのは偶然ドアを開けた叔母と警察官である。そして、流砂に埋もれていくアランを自らの身を挺して食い止めるのはサラであり、さらに彼女はヴァン・ペルトの撃った銃弾からアランを守ろうと、彼の前に立ちはだかる。この直後、アランより背が高く、アランより積極的であるサラからのキスを彼が完全に受け入れてしまうことは、サラの包容的、母性的な支配への服従を示すことであり、ストーリーの破綻となるため、あってはならない。

そして場面が26年後に変わり、製靴工場の事業を父から受け継ぎ順調に発展させていることのうかがえる大人になったアランの描写のあと、画面に登場する、腹部の膨らんだサラの姿は、その直前まではアランよりも上手の存在であったサラを性的に征服したと捉えることが可能である。ここで初めて「母性」が登場することによって、逆に「母性」を完全に否定するのである。