イノセンスの崩壊『感謝祭の客』(誕生日の子どもたちより)

誕生日の子どもたち (文春文庫)

誕生日の子どもたち (文春文庫)

 

1.行為のコード

物語の舞台は1932年のアラバマ、主な登場人物は、主人公の「僕」、主人公のいとこで親友の60代の女性ミス・スック、主人公の同級生オッド・ヘンダーソンである。

「僕」は家庭の事情によって両親から離れ、年上のいとこたちと暮らしている。特殊な環境ではあるが、大恐慌時代のアラバマにおいては比較的裕福な暮らしぶりである。ミス・スック以外には同世代の友達もおらず、動物を殺すなどの暴力にもまったく耐えられない女々しい性格である。

対するオッド・ヘンダーソンは、刑務所に投獄されている父親をはじめとして根性の悪い者の揃ったヘンダーソン一家に生まれる。「僕」がこれまで出会った人間の中で一番意地の悪い人物であり、小学2年生でありながら性格の悪さのために2度落第しており、「僕」よりずっとからだが大きく、悪知恵が働く。そして女々しい性格の「僕」をいじめの標的に選んだため、「僕」はオッドの様々な暴力におびえながら日々生活している。

ミス・スックは幼少のころに大病をわずらったせいで背中がまがっており、学校に行っていないため無学だが、内側の精神が優れているために常にはつらつとしたエネルギーを感じさせる人物である。

物語はミス・スックや犬のクイーニーと暮らす暖かな「家」と、「僕」に数々の災難をもたらすオッド・ヘンダーソンのいじめが行われる「学校」を描いたのち、ミス・スックによって、次の感謝祭にオッドを「家」に招待することが提案される。招待しても来ないとたかをくくっていた「僕」の予想を裏切り、感謝祭にやってきたオッドは、日ごろの態度とはうってかわって奥ゆかしくふるまい、「僕」が好意をよせるアナベルクリントンのピアノに合わせて歌をうたい、一躍人気者となる。

「僕」はオッドがバスルームでミス・スックの大切にしているカメオのブローチを盗むところを目撃し、食事の席で全員の前でそれを暴露する。ミス・スックは「僕」の信頼を裏切ってオッドをかばうために嘘をつくが、オッドは正直に白状し、出ていってしまう。オッドはそれ以降「僕」にちょっかいを出すことをやめ、2年後に退学になって姿を消す。「僕」はその1年後にべつの町の寄宿学校へ入れられ、さらに1年後、ミス・スックは他界する。

 

2.謎のコード

物語は「僕」の回想によって語られ、「僕」の目線ではオッドは終始悪役である。読者は「僕」と一体化し、オッドに罰がくだされることを望むが、ついに「僕」がオッドの悪行を食事の席で全員にばらすという瞬間、立場が逆転し、逆に「僕」はミス・スックによって罰をくだされてしまう。

「僕」は、オッドが自分より優れ、正直者であるようになってしまったことに気づき、うちのめされながらも、最後までそれがどうしてなのかはわからずにいる。ここで読者と「僕」との一体化は終了する。

 

3.文化のコード

それまでのアメリカ文学において、マッチョを奨励し、女々しさを否定してきた文化背景がある。また、カポーティはほかにも「ミス・スック」と「僕」との生活を描いた作品を残しているが、完全なるイノセンスが最後まで守られるものもある。しかし、この「感謝祭の客」では、結局マッチョであるオッドが勝利をおさめることから、そのようなイノセンスはアメリカ社会の中では捨て去らなければならないものであるということを示しているともいえる。

 

4.主題のコード

この物語の二項対立は、女々しいところがある「僕」という「弱者」と、「僕」に暴力をふるう存在である「強者」オッド・ヘンダーソンである。そしてこの2人を結びつけようとする媒介者はミス・スックである。

ミス・スックは、年上のいとこたちなどの「大人」と同等の扱いを受けていない。いとこたちの家で、叔父の命令にさからうことのできない「弱者」として、ミス・スック、「僕」、そして犬のクイーニーの3人は特別な連帯感を持って暮らしており、「僕」はその家での生活にこの上ない安心を感じている。ここで3人を包み込むのは、既成の価値観にとらわれない自分たちだけのイノセンスな世界である。そしてオッド・ヘンダーソンによって数々のいじめを受ける学校では、「僕」は精神的に強い苦痛を感じている。

はじめ、叔父のはからいによってそのような女々しい性格を治すため、七面鳥を殺すことを命じられた「僕」をミス・スックは助けるようだが、その際に彼女が提案する代替案が、オッドを感謝祭へ招待することである。自分が「弱者」であることを知りつつ、「僕」には「強者」と折り合いをつけていく術を学ばせようとする。
「僕」は感謝祭という場所でうまく自分を演出したオッドに子どもらしい嫉妬心を感じ、彼を陥れる画策をする。しかし知恵が足りないゆえにやり方を間違え、皆の同情を得ることに失敗し、ミス・スックにさえ裏切られる結果となる。

ミス・スックと「僕」はその後和解するが、永遠の友情を求める「僕」に対し、自分がいずれ死ぬことをわからせることで同時にイノセンスの終わりを告げる。

 

5.象徴のコード

しかし読者が「僕」の視点を離れるとき、オッドこそ「僕」よりもイノセンスな存在ではないかという疑問が生じる。

ミス・スックの視点に立てば、オッドははじめから、家では母親を助ける心の優しい少年である。父親が刑務所に投獄中という家庭環境の中で、周囲の偏見や同情に逆らうため、学校では意地を張って生活している。オッドは小学校を退学という目に逢い、ミス・スックは病気のため学校に行けなかった。また、服装の点でも、「僕」は上等の服装をしているのに対し、ミス・スックは自分の衣装とよべるものをほとんど持ち合わせておらず、オッドも常にみすぼらしい服装をして生活している。そして何より、「学校」という場所には「僕」以上になじめなかったオッドは、ミス・スックの「家」にやってくることで、はじめて生き生きとした自分となる。

ミス・スック、オッドという、アラバマの田舎町で強固なイノセンスを保ったまま暮らす2人の人物を、よそ者である「僕」が媒介する物語であるともいえる。

ミス・スックが、自分の育てた菊を「ライオンだ」と呼び、家にひっぱってくる描写は、イノセンスの象徴であり、「弱者」として馬鹿にされながらも精神が優れているために本当は気高い人物であることを示している。そして最後のシーンで、この「ライオン」を、ミス・スックは「僕」ではなく、オッドに渡してしまう。既成の概念に縛られ、簡単にイノセンスが崩壊してしまうのは「僕」だけであり、残るのはそのイノセンスに対する強い嫉妬心である。