「移民」として生きること 『バードマン』

2015年のベスト映画『バードマン』を家であらためて観た。

「これは移民の映画である」という評を、監督含め主要クルーがアルゼンチン人だから、となんの気なしに字義通り受け止めていたのだけど、これは「アメリカのニューヨークで生きる”移民”を描いた作品」なのだ、ということにようやく思い至った。

私見ですが、私は本作を、常に合衆国のアングロサクソン文化に対して批評的であろうとする移民カルチャーが、ハリウッド映画界に久しぶりで快心の一撃を与えたと思っています。 

「バードマン準備稿+」 - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME

 

 

 

 とはいえ、マイケル・キートン演じる主人公をはじめ、明らかに「移民である」アイコンをまとう登場人物はひとりもいない。日本は極端に移民が少ない国だから私が正確に理解しているかどうかはわからないのだが、主要キャストも全員アメリカorイギリス出身のアングロ・サクソン系である。ただ、舞台の初日を迎えるまでのたった数日で、悪いことばかりが続いてもうなにもかも全然うまくいかない主人公のリーガンに、容赦なく移入していくうちに気づくことは、この「なにもかもうまくいかない感じ」は、私も身に覚えがあるぞ、ということなのだ。

私がこの映画で一番大好きなキャラクターは、演劇批評家のタビサなのだけど、タビサは落ち目の俳優リーガンが自分の人生をかけて挑む舞台に対して、観る前から最低評価をくだしている。なんだけど、それが全然的はずれで高飛車な態度ではないところがすごい。だって、アメコミ原作のアクションヒーロー映画をやってた俳優が、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を、自らの脚本・演出・主演でブロードウェイでやろうとしているのだ。「カーヴァーがなんとなく好き」ってだけで。ちなみにカーヴァーの原作とは、台所で4人の男女が愛についてただ語る、という内容の短編である。演劇について相当知識のある脚本家が、相当大胆に脚色しないかぎり、ドラマチックな展開になりそうもない。それを演劇初挑戦のリーガンがやるなんて、もう、絶対最低な駄作になるにきまっているじゃないか、て私でも思う。

それに対してリーガンは、ド素人、門外漢ならではの大胆さで挑んでいくんだけど、案の定、全然うまく事が運ばず、孤独で、はたして自分は、ここでうまくやっていけるんだろうか? という不安が常につきまとう。

そう、この感じ。

「バードマン」を演じているときには常に、自分が中心であり、万能で、うまくやれている実感があった。でもあえて、リーガンは演劇という、「よその土地」を選んだ。この場所のルールはよくわからない。常に「よそ者」として色眼鏡で見られていて不快だ。がんばらないと、すぐここから閉め出されてしまいそうな感じがする。これってまさしく、住み慣れた土地を離れてやってきた「移民」が共有している感覚じゃないだろうか。そして、私はこの感覚をよく知っている。東京で暮らす、田舎者として。

 

「無知がもたらす予期せぬ奇跡」、とは、だから、イニャリトゥ監督がアメリカにもたらした、この映画そのもののことを指してもいる。