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戦争中毒と軍事オタク 『アメリカン・スナイパー』と『風立ちぬ』

映画・アニメ・ドラマ 虚構日記

d.hatena.ne.jp

最近話題になっていた、こちらの記事。宮崎作品における、親子関係や、女性や、戦争の扱いって、一般常識に照らせば「すげーひどい話」だよね、ていうのが宮崎監督本人の談話も交えて端的にまとまっている。

とはいえ、「なのになんでラピュタよりヒットするんだ!」ていうのは(ただのリップサービスだとは思うが)違ってて、「だから」ヒットするんだろうとは思う。

 

だから、『もののけ姫』以降は、何だかよく分からないまま映画を観ている人がどんどん増えて、最新作の『風立ちぬ』に至っては、最後まで全然わからないけどなぜか映画は大ヒットしてるっていう、異常な世界がずっと続いてるんですよ。とんでもないことだと思うよ、これは。

(中略)

でも、『ラピュタ』のコケ方っていうか、客の入らなさというのは「本当に悲しいな」と思ったもの。誰もいない劇場でさ、ラピュタが空に向かって飛んでいくラストを「俺以外誰もいないよ~!」とか思いながら観てたもん(笑)。『ラピュタ』って、今観ると本当に分かりやすい話で、テーマも凄く分かりやすいのに、あれがコケて『風立ちぬ』が何で大ヒットするのか、本当にわかんないよ!

何度もうろ覚えのまま引き合いにだして恐縮ではあるが(実家で読んだ本なので引用できない)、内田樹先生が村上春樹について解説した内容が私としてはとても興味深かった。それは、「村上作品には『父殺し』が出てこない。だから世界的な作家となったのだ」という話なんだけど(正確には本を読んでください)、素人考えでいうと、要するにスターウォーズですが、「父殺し」みたいなビッグで共感しやすいテーマがある、だから世界的にヒットする、ていうほうが随分わかりやすいわけだけど、逆の指摘になっていて、非常に感慨深かったのだ。「父殺し」で描かれる「絶対的な父なるもの」って、キリスト教的には神だけど、じゃあイスラム教的にはなんなの?日本だったら?て感じで、場所によって様々で、司馬遼太郎みたいにローカルで圧倒的な人気を誇ることはあっても、「世界的に」ヒットすることはない。では村上春樹が描いてるのってなにかといったら、憎まれるべき絶対的な悪者なんてものはどこにもいなくて、だけどなぜか世界は降り積もった邪悪に満ちている、それを人知れず取り除く、雪かき仕事を厭わない人が世界にはいくらか存在する、ということを描いてるから、て話なのです(正確には本を読んでください、本当に)。

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

 

なので、そういうふうに考えると、たとえば『千と千尋の神隠し』が世界的に大ヒットするのもそういうところに理由があるんじゃないのかな、て思ったりする。人はわかりやすいワンテーマを求めて映画を観てるわけじゃない。

最初にも書いたとおり、町山さんの映画批評は、事実や伏線、引用など、映画の諸要素については非常に端的に、わかりやすくまとめてくれるので、「ああそうだったんだ、気付いてなかったわそれ」と映画をみてから知る分にはとても役立つんだけど、「わかりやすくまとめる」っていう、リップサービスに非常に長けているせいで、『風立ちぬ』の二郎なんて全然いいやつじゃないのに、なんでラピュタよりヒットするんだ!みたいな、わかりやすくウケる言い方に「まとまりすぎちゃってるな」って感じはちょっとする。私がこの解説を読んで容易に想像がつくのは、『風立ちぬ』を見ずに、「あれは宮崎駿の自慰映画なんだよ」みたいに我が物顔で居酒屋なんかで「解説」するひと、なのだけど、そういうふうに「解説」したいがために映画を観るひと(あるいは観ないひと)がいるのは特に否定しないけど、私はそういうふうに映画が観たいわけではない。

 

とここまでが非常に長い前置きで、もうひとつ書いておきたかったのは、『風立ちぬ』ってそういう意味でいうと宮崎駿監督の作品の中ではとても異色で、とてもローカルな話になっている気がするな、ということ。

私は『風立ちぬ』を観て大感動したタイプなのだけど、それは、宮崎駿監督の描く「リアルな日本」がものすごく美しいから、ていうことが1点と、二郎に恋をしたから、ていうのが2点目。「リアルな日本」の美しさに驚嘆こそすれ心の琴線を揺すぶられるのはやはり日本人だけだろうと思うし、二郎に色気を感じるのは、「日本アニメ」に慣れ親しんできた若干腐女子気味の私、以外にないだろう。これは日本人のための映画だな、という感じがする。

町山さんの解説をふまえて書くと、この映画で宮崎監督は「軍事オタクなアニメーターである自分」を大肯定している、ということになるのだけれど、ここに「日本」のリアルがあるというか、あくまで肯定しているのは「戦争」ではなくて「軍事オタクである自分」でしかなく、美しいものが描きたい、飛行機が描きたい、という二郎は映画の中では実際に戦争に加担することになるのだけど、日本人のリビドー的にそこで現実の戦争を礼賛する、というふうにはけしてならないのであって、「ああアニメって素晴らしいな」ってことでしかない。 

 

ここで思い出したのが『アメリカン・スナイパー』で、こっちはこっちですごく「アメリカ人のための映画」になっている。

幼い頃から父親に射撃の訓練をされ、それが誇りでもあった主人公が、大人になって田舎でくすぶってたところを、イラク戦争に出ることでメキメキと実績をあげる。だけどアメリカ本土に帰ってくるとてんでダメで、平穏な日常が不安で、またすぐ戦場にいきたくなる。そんな話。

主人公にとって、「銃を撃つ」ということは自分の存在価値であって、それにイラク戦争という「正当性」を与えられてしまい、銃で人を撃つことに罪悪感はまったくない。「飛行機」や「銃」を、「男のロマン」としてひとくくりにして考えると、それに魅せられて戦争に加担していく主人公は、『風立ちぬ』の二郎と似てなくもないとおもう。

マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観て驚愕だったけど、日本で軍事オタクのひとが楽しくやっているのと同じような感じで、アメリカには「実際の銃」を楽しく扱うオタクなひとびとが存在する(全米ライフル協会)。西部劇のラストシーンでは、必ず「正義の銃弾」が、常に正しく悪役にだけヒットする。二郎や、日本のオタクたちが、ただ「飛行機の美しさ」に魅せられるのと違って、アメリカのオタクたちは「正義の銃弾がヒットするその瞬間」に魅せられている。だから主人公は「戦争中毒」みたいな症状を引き起こし、「正義の銃弾」を打ち込むにふさわしい「悪役」の登場を楽しみに待っている。そういう、アメリカの病理。

アメリカン・スナイパー』は、「実話である」ということを理由にすごいラストで締めくくられ、「実話である」理由でそこに監督の意図はない。『風立ちぬ』も、町山さんの解説で知ったけど、ラストシーンは宮崎監督の意図からはひょんな理由で180度転換されたらしい。だからラストがどうだからといってどうこうな映画ではないんだけれど、結果として双方「主人公を赦す」ことになっている。だけど軍事オタクを赦すのと、戦争中毒を赦すのじゃ、重たさが全然違うじゃないか、なんてことをちょっと思った。

 

 

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参考:

『風立ちぬ』 (内田樹の研究室)

「第87回アカデミー賞直前予想(「直前」はギリ挫折)」 - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME

町山智浩 クリント・イーストウッド監督 アメリカン・スナイパーを語る