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エグい女の人生『かぐや姫の物語』

かぐや姫の物語』を見終え、もう80近い爺さんである高畑監督がこれを作ったのだとするとちょっとエグすぎやしないか、と思ってドン引きしていたところ、脚本は女性ということだったので心底安心した。安心したがしかし、エンターテイメント作としてはまったく安心してみることのできない奇妙な作品であるとも感じた。

 

 

美形の思春期

かぐや姫は圧倒的な美形として成長する。

本作では、特にその思春期にスポットライトがあてられて描かれていく。

「美形の系譜」でいえば、「努力」や「成長」に焦点があてられる青春ストーリーにおいて、自分の力で得るのではなく「あらかじめ持って生まれてしまったひと」の葛藤や戸惑いを描く作品はおもしろい。

かぐや姫も、持って生まれた「美」が周囲の人を惑わし、そのことに戸惑い、翻弄されていく。

その「美」は、「徹底的に隠される」ことでより際立ったものになっていく。「高貴な姫君」となるために、眉を抜き、歯を隠し、御簾のうしろからけして出ずに、かぐや姫の美しさは隠され、隠されることでより一層、人々の噂にのぼる。

かぐや姫本人は、そこに強い違和感を覚える。あるがままの自然の美しさを愛でる彼女にとって、自分を見たこともない人々が、「この世にありもしない宝物」のように自分の「美」をありがたがることが信じられない。そんな美しさは「偽物」だと感じ、あるがままの自分を見て、あるがままに接してくれた幼馴染への想いを募らせる。

 

地球の「穢れ」とはなんだったのか

他者からの好奇の視線と、自意識とのズレに苦しむ「美形の思春期」は、そのズレを克服し、他者を受け入れることによってカタルシス、大団円、となることが多いが、しかし。だがしかし。『かぐや姫の物語』の場合、(原作がそうだからしょうがないにしても)、全てを諦めて月に戻っていってしまうのである。驚愕。

「穢れた地」であるとされる地球に憧れてしまい、地球に落とされたかぐや姫。「戻りたい」と思ってしまったとき、パンチパーマの月の人があらわれて、強引に連れ去ってゆく。「生きろ」だとか「生きねば」とか、いつも何度でも、とにかく穢れてようがなんだろうが生きるんですよ、というメッセージが全作品に共通している宮崎作品と対比して、あまりの「諦念」に満ち溢れるラストに愕然。

 

しかし結局、「穢れ」とはなんだったのか?

ストーリーの途中まで、『平成狸合戦ぽんぽこ』よろしく執拗に「都会」と「自然」が対比され、都会は嫌、自然が好き、となっていたかぐや姫だったが、「穢れ」というのはどちらかというと、「自然」のほうを指しているようにおもわれる。鳥や虫や獣のように、ただあるがままに成長して、交わって、そして死んでゆく。そういう生き死にこそがパンチパーマの人にとっては「穢れ」であるはずだ。

「都会」は「穢れ」を隠そうとする。特に女の「穢れ」に敏感である。「髪をあげた」(性交可能になった)女はもう御簾の外に出てきてはいけない。そのことに対してただ反発を覚えていたかぐや姫が、アゴの帝にまさにされそうになって拒絶し、「ほら、穢れっていやなものでしょう、帰りましょう」とパンチパーマの人あらわるなのだ。

 

もう一度繰り返すが、原作がそうだからといって、かぐや姫は月に戻らなくちゃいけなかったんだろうか。あまりに現代のエンタメ作としてこれを作るには、エグすぎるラストである。

 

参考:

高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』が出来るまで - 1年で365本ひたすら映画を観まくる日記